vol.10 画家
山口一郎さん
vol.10 画家 山口一郎さん
たくさんの「こと」や「もの」があふれる今、作り手の想いと使い手の心がつながる奇跡。瀬戸内の小さな町で暮らし、ここにある風景、文化、素材と向き合い、ものづくりにこだわりと情熱を注ぐ作り手の方々をご紹介します。
彼らの美意識やものづくりの喜び、遊び心などが詰まった言葉を大切に集めてそれぞれのストーリーを発信していきます。
第10回は、画家 山口一郎(やまぐちいちろう)さん。香川にやってきて早20年。全国各地の展示会やイベントで忙しく飛び回り、日々新しいことに挑戦する一郎さんの画家としての原点をお話しいただきました。
ーまず 始めに今年で何歳になられますか?
今年で55歳になります、あっ6だって56歳でした(笑)
※後日談として、本当は55歳とのことです。
ー画家になろうと思ったきっかけを教えてください。
東京でイラストレーターをやめて、実家の静岡に帰ってパン屋の仕事をしながら好きなように大きな紙に絵を描くようになって…
その日描いた絵を、ネットで当時やっていた「ウナギコンピュータースタジオ」っていうブログに載せて日記をつけていたんですけど、ブログ読んだ方から感想のコメントを貰うようになったんです。タイミング良く東京のDEE’S HALLさんに絵を見せに行く機会がありまして、展示をしませんかとお誘いを受けてそこから「画家」と名乗るようになりました。
ーそれまでは趣味の一環だったんですか?
そうですね、画家って言うよりも公表することの無い絵をひたすら描いているだけの人でした。バイトをしながら…まあ趣味ですね。
ー昔から絵を描くことは好きだったんですね。
うん。漫画ですけど、好きな漫画の絵を真似して広告の裏に描いたり高校卒業したぐらいの頃に漫画家になりたくて漫画を描いて出版社(講談社)に持ち込みしたことがあって…結果は全然ダメでした(笑)
ーちなみにどんな物話りを描いたんですか?
尾崎豊の詩みたいな話を描きました。「学校なんて…」みたいな気持ち悪くて実家のどこかに閉まっちゃいました(苦笑い)
ー昔好きだった漫画家はいますか?
望月峯太朗さんの漫画が好きでして、「バタアシ金魚」が一番好きでその絵をずっと真似していました。当時すごく好きで漫画家になろうと思ったときはずっと峯太朗さんの絵をみてました。
ー元々は画家ではなく漫画家志望だったんですね。
そうです。でもストーリーが描けないから無理だったんです。あと漫画っていろんなキャラクターや風景を描かなきゃいけなくて、それが上手く描けない…今は漫画より絵本を描いてみたいです。
ー東京の学校に通われていたんですよね。
東京のセツ・モードセミナーに通っていました。絵を描くことが好きだからとりあえず絵の学校行ってみよう、でもお金ないから安いところ行こう、みたいな感じで。入学がくじ引きみたいなところだったんで入学金も安くて、僕でも通えるかなと思いました。
ーどんなカリキュラムがあったんですか?
なんかね、見て盗めっていう感じでしたね。友達や先生の描いている絵を見て。校長先生がデッサンが得意な方でしたので「俺うまいだろう」って一緒になってデッサンしたり、週に一回水彩画で静物画を描いたり、あとは好きなものを家で描いて発表したりひたすらその繰り返しでした。でも、この学校に入学してはじめてデザインの分野を知り得ましたね。
自由な学校なので来なくなる人も多かったんですけど、あとは他の学校行きながら来てたり年齢の幅も広かったです。下は中学生から来ていて、なんだか絵の塾みたいなところでした、2年ぐらいの学校だったんですが卒業資格もなかったです。
僕も1年ちょっとぐらいで出版社のマガジンハウスに絵を持っていってそこで「olive」の雑誌にデビューして学生時代からイラストレーターの仕事が始まっていました。
ーマガジンハウスさんを知ったのはどのタイミングだったんですか?
最初はイラストレーターの仕事もよく分かってなくて、自分の作品をファイルしていたんですけど一番自分の絵を載せたい好きな雑誌がマガジンハウスの「olive」だったんです。そこに自分の作品集を飛び込みで持って行ったら採用されました。
ー戦力になる人だったら即採用だったんですね。
当時は飛び込みで持っていく人が多かった時代でしたね。雑誌の紹介コーナーの地図を描いたり、ファッションのアイコンの絵だったり企画の絵を描いたり色んなイラストを頼まれましたね。専属ではなく依頼が来たらテーマに沿った絵を描いていました。
ー「olive」って当時は誰もが知る人気の雑誌でしたよね。
うん、かわいくてね。女の子の10代~20代向けのファッション雑誌で、僕がデビューした当時の表紙はまだデビューしたての宮沢りえさんでした。
ー「olive」の雑誌以外にも何か手がけられていたんですか?
「POPEYE(ポパイ)」の表紙もしていました。まあ、全体的に一通り仕事していたと思います。「ターザン」や「ブルータス」…一番仕事していた雑誌は当時の「ダ・カーポ」っていう雑誌ですね。マガジンハウスの中じゃファッション誌って言うよりも、政治とか今で言う週刊文春や週刊新潮みたいなマガジンハウス版でした。文字が多い雑誌ですけど、そこにちょっとイラストが入った表紙を1年間ぐらい描いたりとか中の絵も結構いっぱい描いてたり、別冊の絵も全部担当したりとか色々ですね。
ーファッションが好きなのかと思ってました。
いえいえ、僕を採用してくれた担当の方が「POPEYE(ポパイ)」とかをしていてそのあと「ダ・カーポ」の編集長になったんですよ。「山口、いっぱい描けよ」って言って描き始めた時に僕、マガジンハウスに住み着くようになって(笑)そこで2、3年ぐらいかなほとんど一週間土日以外はマガジンハウスをウロウロしている人になって…
ーお家はあったんですよね???
家あったんですけど、あの~家より快適というか…ごはんはタダで食べれますし、ウロウロしているとお酒を飲みに連れていってくれたりエアコン効いていて、発行している雑誌は全部貰えて「天国」でした!そして会社が銀座にあったので立地もよくウロウロするにもいい。楽しかったです(笑)
ーマガジンハウスさんの仕事で一番苦労したことと楽しかったことはありますか?
やっぱりね一番苦労したのが、「olive」でデビューした時かな。憧れの雑誌だったんで、初めての仕事で急に手が動かなくなっちゃって、涙も出てきてすごく怖くなったんです。「これ、全国誌で色んな人が見るんだって」思って恐怖になりました。手が動かなくなったのはその一回きりで、もうダメかもしれないと思ったんです。普段描いていないマップの絵なので苦手な分野ではあって、克服までに結構長い時間がかかって、気持ちを落ち着けながら提出してOK貰えたんですけどすごいプレッシャーでしたね。仕事が終わったあとみんなでお酒を飲むのが楽しかったですね(笑)
楽しかったこととはまた違うかもしれないんですけど「タンカレー」(お酒のジンメーカー)のラベルジャケットのコンペがあって、その時にマガジンハウスのコピー機で10分ぐらいで作ったんですよ。そしたらそれが入選して、それで、大きな会場で大きな画面に1つ1つ作品を投影してるのを観て「これ10分かかってないんだよな~」と思って笑ったことはあります。
審査員の方から「これってデジタルで描いているんですか」と聞かれてコピー機で拡大してペンで色つけただけなんだけどな~って(笑)。
ーちなみにどんな絵を描いたんですか?
なんかね、円を何個も重ねて抽象的な感じで作ったんです。そこに色を重ねたのがデジタルぽく見えるんですけど、それが何百人や何千人と観られる会場の選考10人ぐらいに選ばれまして…で、発表されていたのを見て「絵って時間じゃないな」と思いましたね。大賞には選ばれなかったんですけどね。
ーマガジンハウスには何年勤められていたんですか?
たぶん、4、5年いたとおもうんだよね。仕事を辞めて静岡の実家に帰る寸前まで広尾のこどもたちに絵の教室の先生をやったりとかしてました。デザイナーさんの知り合いの男の子なんだけど、絵が好きな子がいて、なんか先生を探していたらしくて「一郎行け」って言われて行くようになったんです。
ー絵画教室の先生されていたんですね。
先生というか、子どもたちと一緒になって遊んでいました(笑)当時はその子の友達で絵画教室通っていたけど嫌になってしまった子や絵の好きな兄弟とか知らない間に口コミで広がっていて、その内塾の先生からうちの塾で週末絵の教室やってほしいと言われて教えていましたね。
ー今も色んな展示会でワークショップされていることが多いですが昔から、結構こどもたちと一緒になってすることが多かったんですね。
うん、友達が小学生しかいない時期もありました(笑)休みの日も携帯に電話かかってきて、教室のこどもたちと公園で自転車でドリフトしてたりしましたね。
ー他のコンペディションには応募されたりはしたんですか?
何のコンペか忘れてしまったんですが、副賞でフランスかニューヨークに行ける分に賞をとったことがあってそれでニューヨークに行きました。全く英語が喋れなくてお母さんに「行きたくない」って泣いたんです。
ー海外は行きたくなかったんですか?
行きたくないです。2人だったらまだいいんですが1人なると怖いじゃないですか。
ー何歳ぐらいの話だったんですか?
20代半ばぐらいの年齢ですね。当時はまだ飛び込みでファイルを見てくれるギャラリーもあって、滞在中に落書きばかりしてたから、それを纏めて、soho(ソーホー)にあるギャラリーのひとつに持って行ったら見てくれて、紙を渡されたんです。僕、英語が全然読めないから、ホテル帰って日本人観光客のガイドさんに翻訳してもらったら「何日にオーナー来るからその時ファイル持って来なさい」って書いてあったんですけどその日、日本に帰る日で時間が合わなかったんですよ…。
2回目にニューヨークに行った時はギャラリーはあったけど、見た目が全然変わっていて見てくれなさそうでした、勿体無かったですね。
ーよく飛び込みで持っていけましたね。
ねえ、行く時は泣いていたのに(笑)ファイルの前に英語で「僕、英語わからないですけど絵を見てもらうことは出来ますか」って一生懸命辞書で英語を調べて書きましたね。
ー時代ですね。グーグル翻訳とかない時代ですよね。
そうなんです、だから結構怖かったなぁって。地下鉄とか治安が悪かったので、日中は地下鉄を避けて地上を歩いていたんですが首からカメラ下げて、手には地図持ってて感じでいかにも観光客ですっていう格好で歩いてたんです。そしたら3人ぐらいの男の子がずっと後ろをつけてきて肩ドーンてされましたもん。それを無視して下向いて歩いていたら、離れていきましたけどちょー怖かったです…やばかったです。
ー海外で絵を展示したことはありますか?
アメリカに2回目行った時に、ブルックリンにある「Blue Sky Bakery(ブルースカイベーカリー)」の壁に、お花の絵を6枚ぐらいだったかな飾ったことがあって、結構すぐに買い手がついたんですよ。
女性のお客さんで、旦那さんにクリスマスのプレゼントでひまわりの絵を買いたいってお客さんがいたんです。海外での絵の販売はこれが初めてだったんですが、「あなた日本人だったのね」と言われたんです。絵を気に入ってくれて買ってくれた思うと、何だか海外でも認められて気がして嬉しかったです。
ー香川に来たきっかけは何だったんですか?
最初のきっかけは猪熊弦一郎(画家)やイサム・ノグチ(彫刻家)、島の美術館を見て回りたいなと思って。特に猪熊弦一郎さんが好きだったんです。で、たまたま僕のブログのリスナーの方から来てみませんか?と連絡が来て「すぐに行きます!」ってなりました。高松来るんだったら愛媛も来ませんか、ってなって香川と愛媛を巡りました。
香川に着いたら香川の大工町にアカネビルっていう所があるんですけど、そこの部屋1つ空いているからそこを片付けたらタダで住んでいいよって言われたんです。で「いいんだ!」って何ヶ月いただろう…春から来て5ヶ月か6ヶ月住んでいたかな。そこを拠点に1週間の予定が半年ぐらい住みながら絵を描いていましたね。アカネビルに住んでいた人も、建築家の卵だったり、美容師さんだったりしたんでいつも夜になったらお酒飲んだり喋っていたら楽しくて、そこで絵を描いて溜まったやつをDEE’S HALLに持っていって気に入ってもらえて展示会やりましょうとなったんです。
ー画家の一歩が香川だったんですね。
そうですね。始まりでしたね。
ーよく旅行気分で来て半年も住もうと思いましたね。
1週間の予定が、親も何してんだろうと思いましたよね(苦笑い)旅行に行く前にパン屋のバイトしてたんですがその時は辞めていたんですよ。辞めて時間ができたんで香川に来たんですよ。
ー猪熊弦一郎さんはいつから好きだったんですか?
美術の教科書で見たのかテレビの日曜美術で観たのかは覚えてないんですけど30歳近い頃だったと思います。当時、HPで猪熊さんの色んな絵が見れたんですよ。とってもかっこいいよなと思って。ちょうどネットで猪熊弦一郎の絵を見てた日に、香川に来ませんかっていう連絡が来てこれは運命だなっと思いましたね。
ー連絡がなければ香川には来なかったんですか。
来てないですね。もともと出不精なので(笑)一度静岡に帰ったんですが、5年ぐらい経って友達もいっぱいできていたので香川に戻りたいと思って、また一週間ぐらいのつもりで…住むようになり最終的に移住しました。
ー香川に戻ってきて初めての展示会は何だったんですか?
それこそ僕、cafe umieさんが好きだったんです。それで、umieに作品を飾ってほしいなと思って車にコルク人形をいっぱい詰めて持って行きましたね。これを使って展示会やってもらえないかなと思って。
umieを運営しているデザイン事務所に着いたんだけど、何度も「見てもらおう」「やっぱりやめよう」とぐるぐると車で行ったり来たりして。3回目ぐらいに「やっぱり見てもらおう!」ってなって。
オーナーでデザイナーの柳沢さんに見てもらったら「面白いね。」となって、じゃあ、展示会やってみようよ。と言ってくれたんです。それが香川で最初の展示会だったと思います。
ー「コルク人形展」はどんな展示会だったんですか?
今はさろんぶるーっていうカフェになりましたが当時「デザインラボラトリー蒼」っていうギャラリーがあって。せっかくなら砂を積み上げて山にして、そこにコルク人形たちをいっぱい置くのはいんじゃない、と柳沢さんがアイデアを出して下さって。砂山で賑やかに遊んでるコルク人形だらけの展示会をしましたね。
ーそもそもコルク人形はどうやって生まれたのですか?
東京のセツ・モードセミナーに通っている頃に吉祥寺に仲のいいご夫婦がいて、旦那さんがジャズが好きで月に2回ぐらいジャズを聴きながら、お酒と料理を楽しむ会があったんです。それによくセミナーの子も行っていて、旦那さんがワインのコルクいっぱいあるから山口くんこれで何か作ってみない?と言われて作ったのが今のコルク人形の原型です。
それが凄く可愛かったから、その後麻布の造形教室でも作ったりしてたんです。それを思い出して、暇だしいっぱい作ってみようかなってなったんだと思います。
ー今はコルク人形は作ってないんですか?
今は作ってないんですよ。材料が100均で廃盤になったりで揃わなくなってしまって、コルクも手に入りづらいですしね。
ー代表的なお花や動物の絵が誕生したきっかけは何ですか?
花の絵はギタリストの清水ひろたかさんが企画した、東日本のチャリティーのライブをDEE’S HALLでした際に僕は絵で参加することになって、ギャラリーのオーナーの土器さんの旦那さんが亡くなって落ち込んでいたので元気にしたいという気持ちとお世話になったお礼でお花を贈りたいなと思って、贈るならDEE’S HALLの壁中にお花を飾りたいとなって誕生したのがきっかけです。
ーそれまではお花は描いてなかったんですか?
それまでは無いですね。凄く喜んでもらえてそれがきっかけでお花の展示会をしましょうとなったんです。
動物を描き始めたのは、画材屋さんですごい太い鉛筆を見つけてこの鉛筆だけで描ける絵を描きたいってなって落書きしていた中で生まれたのが動物ですね。始めは、鉛筆だけで描く絵なんて大丈夫かなと思ったんだけどだんだん描いていくうちに、質も上がって自信がついてきて鉛筆だけで描くのもこれはこれで綺麗だなってなったんです。それで、DEE’S HALLの展示でいろんな動物絵で展示したんです。
ー 一郎さんのサインが特徴的ですが何か意味があるんですか?
サインの下の丸は、最初の頃はなかったんですけど、文章の句読点と一緒で最後の丸。これで完成ですっていう意味です。
ーサインにmが多い意味は?
mが多いのは筆がのったりテンションが上がった時に多くなりますね。あとはやばくてハイになっている時です。逆にmが少ないと穏やかな時ですね。
ー何か作業しているとき音楽かけたりするんですか?
めちゃくちゃします。レコードをかけたり好きなラジオもあるんで、とりあえず安住真一郎「日曜天国」や爆笑問題のラジオや中川家、サンドイッチマン。お笑い系が好きですね。気が散らずに時間が経つのも早いから楽しいです。音楽番組のラジオも好きですよ、山下達郎さんや細野晴臣さんとか。
ーちなみにレコードは?
その日の気分やジャズを聴くことが多いですね。逆に言葉のある音楽だと苦手で、絵を描く時は音だけの方がいいです。
ーレコードって少しめんどくさいイメージですが…
版を裏返したりする作業は僕は好きです。絵を描き終わるタイミングを見て裏返したりしています。今サブスクでずっと流れて聴けますもんね、でも、レコード好きな人は裏返すこと好きな人多いと思いますよ、針を置く瞬間とか。
今は仕事のご褒美で買っています(笑)好きなミュージシャンは持っていないのだったら買うけど、昔はジャケ買いしてましたけど、今は大人になったんでYouTubeやサブスクで音を確認してから買っています。
ー絵を描くときの道具にこだわりはありますか?
あぁ、あります!あります!例えば、使っている筆。僕、赤のワンポイントがあるものが服やバッグ何でも好きで筆のメーカーどこだったけ?黒軸に赤のラインが入っているところが気に入っいます。それなりの価格はしますが文具屋さんで手に入りますよ。使いやすいですし見た目も可愛くて気に入っています。
あと、花の絵を描く絵の具で、ポスターカラーを使って描いているんですけど昨年、金と銀が廃盤になったんです、それで慌てて画材屋に取り寄せをお願いしたら意外と問屋に在庫がありすぎたようで、一生使っても使いきれない量の金と銀のポスターカラーが届きましたね(苦笑い)
お花やネコにも使っているんですけど、他のものでは代用が効かなかったんです。まあ、一生分あるんで金と銀なくて困ったら僕に言って下さい。
ー紙にもこだわりはありますか?
紙は最初の展示会は画用紙で描いていたんですけど、DEE’S HALLの土器さんから白い画用紙が安っぽく見えるからやめなさいと言われてそっからワトソン紙に変えました。最初はちょっと薄いやつを使っていたんですけどどうしても水彩絵の具を塗ると、紙がよれてしまって、今は一番厚い極厚を使っています。絵の具が乗りやすくて描きやすくておすすめです。
ー作業に行き詰まったときの息抜き方法はあるんですか?
僕ね、雑誌をめくったりとかレコードを聴いたりとかしてますね。あとは近くの本屋さんに行って立ち読みしたりとか…そんなくらいかな。最近ジョギングを再開したので、ジョギングして頭を一回フラットにする感じですね。
最近はロードレースに向けてのジョギングをしてます。僕、ロードレーサーの自転車をもっていて買ったきり5、6年以上乗ったことないんですよ。で、いつかツーリングをしたいなっていう夢があるんだけど、ずっと部屋の中でフィギアみたいに飾られていて。知り合いの方でロードレースをされている方がいまして、その方にツーリングに連れて行ってもらいたくてね。その為にジョギングしているんです。趣味をサイクリングにしたくて(笑)
ー新しいものを作ろうとした時、インスピレーションはどこから生まれたりしますか?
1個は美術館とかで僕の場合は海外の作家さんの作品を見た時とか。日本人の方だと真似しちゃうと思うから、なるべく海外のマチスとかピカソとかのそれこそ亡くなっている画家の古い作品からアイデアをもらったりとか…あとは、とにかくラクガキとかをいっぱい描いている中で、この絵はもっと広げれるなとか元になったりします。
結構ラクガキからっていうのは大きいですね。作業場でコピー用紙になんとなくラクガキしたものがもうちょっとちゃんと描いたら良い感じになるなって。
ー出先では描かれたりしないんですか?
僕ね、意外と出先でメモ帳とかにサラサラサラっと描いたりしないんです。出先こそやっと休める時なんで!!!他のこともしたいんで!!行き先でも大体、在廊だとライブペインティングだったり、サインを描いてあげたりだったりするから、ちょっと散歩がてらメモするとかは絶対ないです(笑)他のことしたいです。
ーお菓子のパッケージやバッグなど立体的なものを手掛けられる際にこだわっている所や平面の絵と描き方などを変えたりっていうことはありますか?
とりあえず、自分が欲しいものを作ろうっていうのはありますね。自分の手元にも置いときたいなって思うかわいいものとかを作りたいなと思いますね。
ー最近作った中でこれは良い出来だなと思うものはありますか?
最近ちょうど、庵治石の「蒼島」さんと一緒にお仕事して僕の描いた絵を削ってくれて、コースターが何種類か出来たんだけどその中でも、いつもの定番の花とかフクロウもあるけど、どうせだったらと思って瀬戸内の風景を2枚描いたんですよ。「屋島」と「瀬戸内の島の風景」を何となくさらっと万年筆で。それを加工してコースターにしてくれたんですけど。その2枚はいつも描いてないような風景だったんでなんか良いなぁと思いました。一つ一つ職人さんが削って加工しているから凄いですよ。
ー自分を一言で表すと?
最高のYESマンですね(笑)何でも引き受けちゃう。NOと言わない。ちょっとまずいかなという時もあるんですけど僕の絵が好きでって言われると断る理由がなくて。
僕の絵を買ってくれててファンでって言われたときには「NO」の文字はないですね!あとは、スケジュールもあるんですけど、仕事が被っていたらアウトなんですけど、そうでなければできる限りお手伝いしてあげたいです。あとは、シンガーソングライターの小沢健二君が、断るにしても一回やってみて確認してみてから次回断るっていうのを聞いて。嫌って思うことでも、一回やってみてからでないと分からないのですよね。
もしかしたら、展示会で面白い絵が誕生して次に繋がったりもするんで。自分の考えていること以外のリクエストで自分の定番が増えたりすることもあります。
ー展示会「respect」について
いっぱいのお客さんが来てくれれば嬉しいですね。写真と絵を見比べて見て、いっぱい感想が聞ければいいなと思います。いつも揃わないものが色んな方の協力があってblueさんに揃うので、グッズも買って欲しいし(笑)。
ーこれから先挑戦して見たいことやビジョンはありますか?
「 和 」の仕事ですね。
マチスっていう好きな画家がいるんですけど、今年美術館にマチスの絵を観に行った時にマチスが晩年にフランスにある教会の内装に携わっていて、それが凄い素敵でかわいくて僕もいつかこういう感じの仕事がしたいなっと思って日本人だから教会と言うよりお寺だなと、それで和の仕事掛け軸や、屏風、そういったものをお寺に置きたいな挑戦したいなと思っています。ちょうど丸亀に素敵な、掛け軸を仕立ててくれる装丁屋さんを見つけてくれたんで相談しながら進めています。来年の展示会で発表しようかなと考えています。
ー 一郎さんにとって香川、瀬戸内はどんな存在ですか?
僕の画家としてスタートした場所ですね。絵を描くことを生かしてくれたそんな場所ですね。あと、住みやすい(笑)
見てる人たちに元気をくれるエネルギーいっぱいの一郎さんの絵たち。いままでの繋がりとこれからの新しい挑戦が見れる展示会をぜひご覧くださいませ。